読書のすすめ 12
葬禮と祭式と人生 上巻 下巻
読者が居るから読者が在る様に、人間が居るから葬儀があって、葬儀があるから葬儀に関わる禮儀がある。
禮儀に
二通
りあって其の一つは 心 の禮義であり、その二つ目は形式の禮義である。
形式は其の一つひとつにそれぞれの意味があり、その意味は民族に依って違いがあり宗教・宗派に依って違いがある。
民族 宗教 宗派 に依って違っていても死者を
葬
ることに違いは無いだろう。
筆者は今迄に諸外国を旅して、さまざまな民族に逢い宗教家に逢いながら死者への想いと葬儀内容に触れている。
筆者が葬禮に関わる本を初めに出版した時、書名を神道葬禮祭式伝としたのは、神道学問を伝える者の立場からであったが やがて、人の生死は宗教や宗派に関わり無く、民族の血の流れに関わると知って、葬禮・祭式・人生、その深い意義を伝える努力をした。
心の世界を語り、形の尊厳を書き綴った。
日本の國に仏教が伝わって徳川時代の葬式は殆ど仏式に依って執り行われた様である。
私は、仏式でも神式でも本当のところ日本人と言う民族が執り行う葬式の内容に変りは無いと思っている。
何故かと言うに、例えば仏教の本尊を釈迦・如来 等と申しあげても、日本人の心の中に浮かぶ釈迦も如来も、すべて、日本人の精神波動の中に浮かぶ御姿である。
仏像が置かれ尊影が画かれてあっても禮拝する日本人は印度の民族では無いし支那の民族でも無いので尊像・尊影の中味は日本民族以外の何者でも無いのである。
是れは仏教以外の如何なる宗教に就いても言える事である。
私は諸外國の人々に相対する時、そして諸民族の祖先の霊に対する時、我れ知らず、相対する民族の中へ同化していることに氣がつく。
だから、中國へ行けば中國人と思われるしトルコへ行けばトルコ人と思われている。
でも、吾れに還れば純粋に日本人である。
斯の様な感覚の中で書き綴った葬禮と祭式と人生物語りは必ず、読者一人ひとりの求める話に成る筈である。
読者あるが故に読書あり、人あるところに人生あり、人生に必ず生死あり。
その眞意を読む者
自
からの
内
に是れを
汲
み給えと申しあげて読書のすすめとする。
二〇〇八・六・二六
葬禮と祭式と人生 上巻 A5判●156ページ●価格3,675円
葬禮と祭式と人生 下巻 A5判●208ページ●価格4,200円
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